あけました

どうも、えらく久しぶりです。
おめでとうございます。


技術と再現について、近頃よく考える。
古いものを古い技術で蘇らせる必要ってのは僕にはまったくなくて、新しい技術でもって同じものを作ろうとしなければならないと思うんですよね。


ヴィダルサスーンのシザーカット以降のヘアデザインというのは極めて構築的で、以前のレザーカットは基本的に髪の毛を頭に乗せているに過ぎない。

まず、レザーカットは削って作る。量が多いところを削り、長いところを削る。基本的には美容師の感覚に頼った不安定な技術。

シザーカットは技法として展開図を必要とする(鋏が直線しか切れないため)。故に、再現性というのが生まれてくる。衣服と同じように平面を立体として組み上げていく。『誰が何回切っても同じ髪型が出来る』というのが最初のサスーンカットの理念。

次に登場した技術はディスコネクションで、これは「切らない」技術。以前まで直線で断ち切り全て同じ長さに設計していた髪の毛をそのままにしておく事で、デザインに動きとオリジナリティが付与された。これが一応第二のサスーンカット。茂木ちゃんのハズシというやつ

たぶんこれ以降ヘアデザインというのは進化していない。
もちろん厳密に言えば、ねじったりえぐったり、展開図を使わずブロッキングだけして各部位ごとにシルエットをつくっていく(僕はこれで切っています)方法もありますけど。

実際問題、いま日本のヘアデザインは飽和状態だと思うんですよね。もちろん美容師も。
同じものが大体みんな作れるけどオリジナリティもないし、似合わせの感覚の違いでしかないわけじゃないですか。
その似合わせというのも、例えば「眉毛から2cm上で前髪揃えたほうがいい」って程度。所詮1週間すれば伸びて失われる非常にわかりにくい小さな差異。
社会である程度、普通の髪型とか、お洒落な髪型のイメージが存在するのでそこから大きく外れる事が出来ない以上は、本当に短い目線でみれば美容師なんて誰でもかまわないわけですよ。(だからホットペッパーのクーポンが流行るんですが)

じゃあ長い目線でみた時に、美容師が出来る事(やらなければいけない事)というのはライフスタイルデザインしかない。
人生の節目を適切な髪型で迎えられるように、もう少し細かく言えば、共同体の中でどのような人物像をブランディングしていくのかを、コミュニケーションベースで決めて行く。

でもこれは、あまりにも「美容師」としての技術以上に人間性が問題になってやしないか。

その問題を解決するのが技術のあるべき姿だと思う。
そうなった時に注目すべきは、ディスコネクションの「切らない」という一歩後退した技法だと考えられる。
簡潔に言えば、美容師はレザーカットに戻るべき。
しかし、一度進化した技術は無かった事に出来ないので、僕は大衆に解放するべきだと思う。



めんどいから端折って

これが短い目線で美容師をみた時にオリジナリティを生みだし、美容室に行く回数を増やす方法ではないだろうか。

human fly

古本屋でBECKを久しぶりに読んで思ったことでもダラダラ


human flyって曲が作中で歌われててその歌詞の内容が、「人間の哲学的進化」らしい。この哲学的進化って言い方はなかなかおもしろいと思う。まぁ日本語としておかしな感じはするけど、単純に種族の進化ではなく文化、哲学、科学技術とかまぁその他もろもろの進化を歌ってるのかなと。

単純にハードの進化(100m何秒で走った)と比べてソフトの進化(動物化とか理論の構築とか)ってなかなか見えないし記録としては文書になって読まれないとわからない。



で、この前ノーベル賞を中国の劉さんに贈られて、政府はいまも勾留してるわけですが、これはある意味人類の哲学的進化における多様性みたいなものだと考えられるよなーと。

となると一元的にノーベル賞やるじゃんとも言えないわけで。
もちろんこれはアメリカ的正義に関しても言えるはず。(まだサンデルさんのアレ読んでないんだよねー)
単純に平和への道のりはこっちだとノーベル賞が指示したところでそれは勝手な言い分みたいなものじゃないかと。まぁもちろん賛成ではあるけれど、うさんくさくもある。

ともかく、少なくともいま人類はある程度同じ方向性に哲学的進化をしているけれどそれを暴力で消してしまうことは避けてほしいと思う。

淘汰は同じ種類の力でなされるべき。イデオロギーを破壊するのはイデオロギーであるべきだろう。

少年の話

そういえば、先日コムデギャルソンのHPが開設されたわけですが。
http://bit.ly/aLGTjQ

正直微妙かなと。

コムデギャルソン自体はセカンドラインどころかバカみたいにブランド展開してそのブランドネームを保ってきてると思うんですが、今回はちょっとなぁ。。

まぁしかし、HPが出来たという事で話題になること自体は面白くはある。



言ってしまえば、これまでのコムデギャルソンのブランディングは『わかるやつはわかってればいい、わからないやつも欲しければ着ろよ』的なものだと思うんですよね

川久保玲が直接自分自身のクリエイションのプレゼンテーションなんてしないし、インタビューに関しても仕事感くらいしか答えないし。

しかもテーマが毎シーズン必ず変わるから極端な話当たり外れが激しすぎる。(一般的な意味での縫製も良くない)



それでも商売として成り立ってるのはかなり上から目線で客を選んでるし、それ故に客がそこに「わかってる俺かっこいい」で優越感を得られるから着てるのだと思うんだよ。

ギャルソンフリークなんてシーズン過ぎたら全部服捨てて新しい服買うなんて狂ったやつもいるわけだし。(結局その服を捨てる理由も『古くなったから』っていう”もの”のクオリティよりもその”もの”の持つ意味/価値でギャルソンの服を選んでるから。)

一方で「ギャルソンってお洒落な人が着る人の服なんでしょ」くらいの感覚の人からすれば別に数シーズン前であろうが着てればブランドとしての価値があるから優越感にひたれると。(これはプレイ着てたりギャルソンの鞄何シーズンも持ってる人かな)


そういう風にブランドのファンに二種類の人間を抱えているブランドがHPを持つってことはついに、下部構造に向けてのマーケティングを始めたということだと思う。

まぁ経営的に厳しくなってるからかもしれないけど、少なくともガチファンは実物見にくるかネットでコレクション見るわけだし。



それをしない購買層に向けてのブランディングはもはや凋落の予感しかしないな。

むしろHPを持たないという事自体がcoolだったんだから。
coolの理由を説明しだしたブランドは野暮にしかならない。


しかも、HPの内容は意味不明なもの(といってもブラザーズ・クエイの映像作品)
最近、ギャルソンは露骨にアート路線にシフトしてるのがちょっと胡散臭いな。。

SIXもそうだけど、有名作家ばっかり使ってギャルソンのPRしてるだけにしか思えない。
メゾンエルメスとは大違いすぎて泣けるよ。。



ともかく、ギャルソンのHP開設はネット上での判断が中心になってきた日本で選択肢に入れてもらうための苦肉の策だったのではなかろうか。



と、特にプレイの話も掘り下げることなく印象だけ残して終わるの巻

まずはファッションから

えっと、初めましての人初めまして。
そうじゃないひとどうも、柑橘です 。

あまり長文は打たないのでトレーニングがてらブログ開設しました。

よろしくお願いします


では、以下本編


@takashipom ファッションシーンでビジネスの絡みを悪と言い切れる時代は30年前に終わってるだろうにと言った問いかけをスマート編集長にしたら、今もまだ残ってると言ってました。ファッションシーンも面白いので、一度公開放送の座談会とかやりたいと思います。


という村上隆氏の一文を見てまぁいいタイミングだったのでファッションの事でも。

現在のモード服、特にメンズの話ですがは実際のところスターデザイナー不在と言われはや3年以上たちますね。

Dior hommeのエディスリマンの退任以降リーマンショックやマックイーンの死去等、目に見えてパワーを失っています。

で、僕はいま改めてエディの仕事を再評価するべきではないのかと思う。



おっと、つい端折ってしまいそうだがブログなのでどこまでも書くか。。



まずはファッションの役割について考えなければいけないか。
この役割は社会学とか文化人類学民俗学等のアプローチによって変わります。(というか求められる結果が違うので当然なんですけど。)

その詳細については本で勉強して頂くとして、僕がよく使うファッションの役割とは自己認識の作用。

簡単に言えば「この黒い服は私に似合う」「あの服は私らしくない」など服を第二の皮膚として捉えることですね。

これはモード服だけじゃなくて、古着、仕立等全ての被服にまつわるもの


んで、じゃあさらに限定してモード服の役割について考えたいと思う。

端的に言えばモード服の役割(存在意義?)は否定にある。

一日前の自分を否定/更新するために存在している。(たぶんこれは個人のモード服との付き合い方。)

じゃあコレクションという発表形態をもったモード服の役割とは何か?
僕は「服とは何か?」「美しい身体とは何か?」という問題を提起するものでなくてはならないと思う。

コム・デ・ギャルソンを例にすると、ぼろニットとかこぶドレスがわかりやすいかな。
あれらの評価されている点は西洋ファッションや身体に対する批判でしょ

そこでエディスリマンの仕事とはなんだったのかというと、着れないリアルクローズを作ったことだと思うんですよ

これはとても難しい。

着れないリアルクローズに価値はあるのか?

サイズが合わないユニクロに価値はあるのか?ない。
サイズが合わないLanvinに価値はあるのか?ない。

サイズが合わないDior hommeに価値はあるのか?ある。



そのロジックの回答はあえて変化球で答えるならDior hommeが消費者に科した難題(あるいは無茶振りの選民思想)にあると僕は思う。

その難題とは、「筋トレすんな、でも痩せろ」である。

僕から言わせてもらえばそれお前のヴィーガン押し付けてるだけじゃねえかなんだけど、実際この押しは結構重要で、NYのサラリーマンとかを例にとると、デブは自分の管理もできない人間だから仕事も管理できないというロジックがありますね。

それを更に押し進めた精神性をファッションヴィクティム/キッズに約束したわけですよ。

究極の身体を手にするには痩せなければいけない。
ビルドアップしてはならない。


この身体性が世界服飾史に存在しただろうか。

ないよねー。

エディの仕事とは簡単に言えばビルドアップすら否定する、飽食の時代に最もストイックでマイノリティな思想と身体をプロデュースしたことではないだろうか。

その仕事はある意味狡猾で、ワイドパンツを出した次のシーズンにスキニーを出すという一度甘えたものには過酷なトレーニングだったと思う。


彼の一連の発表は何度も甘えを許しながら何度も身体を否定し続ける活動であったと言える。




うん、こんなもんでどうすか?

ちょっと書くつもりが疲れたよ...



で、再評価して現在の批判にたちゆくならば...


そうだね、まず現在のブランドにエディほどわがままなクリエイションがあるかと言われれば無い。

どうにかして着てやろうとかあれは僕には着れないなーってのがない。

単に高いだけ。

着ているだけで何か特別な価値観を約束するアドバンテージを有しているものがあるかっていうとなんもない。
バーバリーに至っては東京ガールズコレクションと同じことやってるし...
まぁそれがいいか悪いかは置いておいて、危険な方向にシフトしているのは間違いない。


エディ以降、特にストリートが話題にならなくなってから店に人が並ばなくなっていきブランドの商品の価値というのは大きく変わってきた。

もう限定品で飛びつくヴィクティムはいない


個人的にはnikeairで強盗が起きたりエイプの限定商品の列に転バイヤーがいた時代ってのは面白かったと思う。

いまやお得意様には店から電話のかかってくる時代だからね。
有り難いが、お金があれば誰でも着れる服は誰も着ないんじゃないかなと思う
必ずあるのが前提の世界で誰も着れない服(自分の生活圏で着ている人のいない服)が求められているのではないか

これからのモード服に求められているのはある意味思想的なものだと思う。

というよりも脱構築的にマジでダサイ服を作るしかこの状況はないんじゃないかってくらい。